Marginal man
↓正彦
「階段から足を踏み外して、飛べそうだと思うことは悪いことですか」
「知りません」
里見さんは煙を一筋吐き出して、ゆっくり俺に笑いかけた。正確な応えなんて出されたら俺は本当に死んでしまえる。踏み外してしまおうか、と思って止めた。こんなことしたら里見さんの思うつぼだ。どうも医者ってゆう生き物は質が悪い。曽我部のおじさんとみずきさんだって同様に。
「試してみれば?ヤバくなったら俺が治療してあげるよ」
「誰があんたに言われて試しますか」
「誰だろうな」
多分俺が。
「曽我部はもう駄目なんですか」
「君はどう思うわけ?」
そんなことが俺にわかるはずもなくて、俺は曽我部の顔をしきりに思いだそうとした。ふりをしたつもりでいた。
「どうなったっていいですよ、別に」
本心だった。
どうなったっていい。俺は曽我部のことをよく知らなければ、曽我部は俺の名前すら覚えていないだろう。俺が曽我部の顔を思い出せないように。
里見さんは俺の方を向いてただ笑っていた。ふりをしていることもきっとバレている。エメラルドグリーンをした階段が光る。硬質な、冷たいリノリウム。
「じゃあ何でここに来たんだ」
目の奥で嫌な色が揺らぐ。足を踏み外しそうになる。里見さんの腕が俺の肩を掴む。痛い。
「お前に飛べるわけないだろ?」
「自分だって飛べないクセに」
でもこの人なら飛んでしまうかもしれないな。
「階段から足を踏み外して、飛べそうだと思うことは悪いことですか」
↓浅葱
「悪い事かどうかは、理由によるな。」
里見さんが言った。急に俺の目を見る。
「君は飛んでどうするんだ?」
飛ぶ事が最終目的である俺。それを知っていて里見さんは聞いてくる。
俺は少し腹が立った。
「飛んでみればわかるんじゃ?」嫌味のつもりだ。
里見さんはケラケラ笑う。
タバコの灰が、落ちる。
「おっと!
飛ぶ事は落ちること。そういった奴がいたよ。ちょうど君くらいの男の子だ。
例によってそいつはいつの間にか飛んでいっていたなー。」
里見さんは携帯灰皿に灰を落とす。
変なところでモラリストだ。
「俺が飛んだら、里見さんは泣きますか?」
飛ぶ事は落ちる事。
この人はたぶん…。
「そーさなぁ…。」
里見さんがニヤニヤ笑う。
「飛んでみればわかるんじゃ?」嫌な奴。
なんだか気付かされてしまった。
俺はまだ死なないって事。
漠然とは意識していたけど、今は確信している。
飛びたい奴が後なんて気にするか?
飛ぶ鳥後を濁さず。
嵌まりすぎだ。
本当に医者っていう生き物は質が悪い。ろくでなしのくせにキッチリと生かしてしまう。
「病院なんてキライだ。」
里見さんは含み笑う。大っ嫌いだ。
「そうそう。俺、今年から工学部1年生だから。」
「…あんた。医学部3年までいったでしょ?」
それは去年な。里見さんは吐く。毒みたいな言葉を。
「みずきの後輩になりたかったんだ。」
この人の笑いはムカつく。
「じゃあ医学部に入り直せば?後輩つっても、学科違うと微妙でしょ?」
「やだよ、つまんない。」
ホントに同情する。
俺に明日は無い。